脳は情報処理を効率的に行うために高度に進化した器官であり、ヒトの知
性、個性、感情の発達の物質的な基盤となっている。脳における情報処理は
神経細胞がつくるネットワーク、すなわち神経回路が担っており、神経回路
発達の分子機構の解明は神経科学において最も重要な課題の一つである。岡
部繁男氏は、神経回路の発達のメカニズムを解明するために、神経細胞がつ
くる軸索と呼ばれる突起構造の形成、さらに神経細胞同士が情報をやりとり
するために必須の構造であるシナプスに着目して、これらの構造の形成過程
を新しいイメージング技術を用いて明らかにし、神経回路の発達を説明する
新しいモデルを提唱した。
岡部氏はまず神経回路形成の初期過程で最も重要な出来事である、軸索の
伸長における細胞内骨格構造の働きを解明するための新規イメージング手法
の開発に大きく貢献した。イメージングを実現するため、精製した細胞骨格
蛋白質を蛍光分子で標識し、微量注入法を用いて細胞内に導入する手法を開
発し、それまで神経研究には全く使われていなかった蛍光ライブイメージン
グ技術を解析に導入した。この技術により、微小管、アクチン線維、中間径
線維という3種類の細胞骨格の神経細胞内ダイナミックスの全容が解明され
た。
次に岡部氏は蛍光タンパク質GFPが生命科学研究に導入された際に神経細
胞イメージングへの応用の可能性をいち早く認識し、シナプスの構造に集
積するPSD-95分子を用いた全く新しいシナプス可視化手法の開発に成功し
た。シナプス形成の研究はそれまでは主に電気生理学的手法により進められ
てきた。しかしシナプスを個別に見分けてその動的な振る舞いを解析するこ
とは不可能であった。シナプスのライブイメージング技術の導入により、形
成されたシナプスは安定であり消失しないという定説を覆し、形成されたシ
ナプスの多くが除去され、一部のシナプスのみが選択的に安定化されること
が示された。この発見は神経回路発達の研究分野に大きなインパクトを与え
た。またシナプス構造の分子レベルでの調節機構を実験的に示し、GFPの一
分子計測により単一シナプスに存在するシナプスの構造タンパク質の絶対数
の推定にも成功した。更に自閉症マウスモデルにおいては複数のモデルに共
通の神経回路障害が存在することを示した。これらのモデルマウスに見られ
たシナプスダイナミクスの障害は、ヒトにおける神経回路の発達障害の基盤
に、シナプス動態の変化が存在することを示す強固な実験的証拠となった。
岡部博士は脳神経回路の発達とその障害の分子機構を多様なイメージング
技術を先駆的に駆使して明らかにした。その成果は神経科学・細胞生物学分
野の発展に大きく寄与するものとして国際的に高く評価されており、岡部博
士の長年に亘る神経回路イメージングの技術開発への取り組みと、一貫した
問題意識と努力の結果である。岡部博士による神経回路のイメージング技術
の開発により、今後神経回路の動的な性質と安定化のメカニズムの理解が更
に進展することが期待される。本業績は顕著であり、藤原賞にふさわしいも
のと認められる。